ウーマンリブと生活設計
戦後の日本で育った少女たちにとって、もう一つの大きな意味を持つ状況は、「男女共学の民主教育」でした。
現在、ある生命保険会社で、特別研修生の育成・指導に当たっているH・T子は「私の場合、とくに中学のクラス担任が『男女平等』の理念を強調する民主派の先生だったので、それが当然と思いこんだし、実際にも大学を卒業するまでは、具体的な女性差別を感ずることもなかった」と回想しています。
ところが、学生生活が終わり、いざ実社会に出るとなると、就職の第一歩から「性差別」に直面せざるをえません。
たまたまH・T子は、女性でも活躍している人の多いマスコミの一角に入ることができました。
しかし、身体を悪くしたこともあり、療養後、仕事の楽な庶務課に配属されてしまいました。
そこから、彼女のチャレンジが始まります。
まず、「男と対等に働くには、専門的な能力がなければダメだ」と考えたH・T子は、夜間のコピーライター養成講座に通い、トップクラスの成績で卒業します。
それを「能力開発」と「体力回復」の証明材料として、編集部への配置転換を希望し、会社に認められました。
雑誌の編集やイベント企画の仕事に熱中して、数年がまたたくうちに過ぎました。
その後、療養中に知り合った男性と結婚し、養父の経営する印刷工場の仕事を手伝うことになりますが、夫が死去。
婚家から離れて、再びシングルライフに戻り、フリー・エディターになったのです。
このような女性の話は、派遣 千葉で働く女性たちに勇気を与えるものだと思います。

